私は母の臨終に間に合いませんでした。
母がいよいよ危ないと父から電話があったけど、北海道を発てたのは亡くなったと連絡があった後。
ドラマの中のように最後に言葉を交わして手から力が抜けるなんて、立ち会える人はそういないと思います。
母自身、最期は意識がない日が続いて、そのまま目が覚めないまま死んだことに本人も気付いていないのでは、と思います。
死後、母の部屋の片付けをしていて「お母さん、何にも準備してなかったんだな」と思いました。まだ死ぬと思っていなかったんだろうな。
以前、テレビの情報番組でコメンテーターが
「高齢者は、断捨離なんてするもんじゃない。
思い出に囲まれて生きれば良いんだ。モノを整理したらいけない、残された人が片付ければいい。」
と言っていました。
それができるんなら、それで良いですけど、
現実問題、核家族化が進んで結婚や出産年齢が高くなって、みんながみんな、ずっと高齢者を近くで見守っていけるわけではないんですよね。
60代でガンを患った時、子供世代は子育て真っ最中ですぐに飛んでは行けるわけでもないですよ。
亡くなった後、遺品整理は数日では終わりませんよ、遠くから行ったり来たりでは何か月も何年もかかります。
”死ぬ準備”って必要ではないですか?
思い出に囲まれるにしても、全部が全部必要ですか?
母が入院した時、どこから費用を出して良いか分かりませんでした。
亡くなった後、銀行口座がいくつあるかも分からなかったし、実家の光熱費がどこから引き落とされているかも分からなかった。
母の部屋は最低限の片付けのまま、今も4年前と同じ、残された父には片付けられません。
この先、実家はどうなって行くんでしょう。
父はどうしたいのか、母はどうしたかったのか。
「人生の終わりのための活動」を終活と世間一般では言いますが、
終活は”死ぬ準備”をすることではないと、私は考えます。
自分の死と向き合う心なんて、そんなん修行じゃあるまいし、悟りでも開かないとやってけないでしょ。準備したくなくなるでしょ。
終活とは、これからを生きるための、モノの整理、心の整理。
死を意識してからするのではなくて、若いうちから常日頃から。
と思ったらどうでしょう?ちょっと楽になりませんか?
自分はどういうモノに囲まれているのかを再認識して整理することで、
これからの自分、年を重ねる自分とどう向き合って生きていくのかを考えること、
大切な人を困らせないための最後の思いやりではないでしょうか。
自分の人生、自分で人生のお仕舞の仕方を考えたいでしょっ、と私は思うのです。
では、私には「終活アドバイザー」として、何ができるんでしょう。
10月21日(水)に続きます。
次回は、オンライン時代のフェスってすごい!
って、興奮した話です。
Comments