体温のような気温、熱い夏は岡山での母の最期の入院を思い出します。
ある時点で、主治医の先生から母の余命を告げられました。
もし、自分の余命を宣告されることになったら、私は自分の余命を知りたいだろうか?
この問いへの私の答えは、日によってグラつきます。
余命を知って、最後にやりたい事して、会いたい人に会い、食べたい物を食べ心おきなく死にたい?そんな体力が残っているとは限らないけれど。
余命を知らずに、希望を持ったままで弱っていきたい?うすうす気付くのかな?
多くのエンディングノートには、自分が余命宣告をされたら知りたいか、知りたくないか、希望を書く欄があります。
自分の意思として、知りたいか知りたくないか、決めておかないと、家族に辛い選択をさせることになる。
知っておきたい、
でも、知ってしまったら愕然となるかも、知らない方が活き活き生きられるかも。
私は、その時々によってやっぱり知りたいかな、いや、やっぱり知りたくないや、と行ったり来たりしています。
余命って何のために宣告されるんでしょうね?
もう、治ることもなく死ぬのが近いから
覚悟をしていなさいってこと?
準備しておきなさいってこと?
何の覚悟?何の準備?
本人が?家族が?
みんなで別れの準備?
次回「母の余命」に続きます。
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