前回からの続きです。
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母の乳ガンが体のあちこちに転移し、最期の入院となった時、ある時点で、主治医の先生から母の余命を告げられました。
余命を知りたいかなんて確認はされず、本人は別室に、父と妹と私、家族だけに「予後」という言い方でした。
余命宣告を受けた私達家族は、まだ、この入院が最期とは思っていなかったので、母が退院した後に治療を受けながら余命を最後まで全うできるような施設を探していました。
母の余命宣告されたからと言っても、数カ月か、何年になるのか、最期までの間には子供達の学校も自分の仕事も家族それぞれの生活があります。
今までよりも治療が辛くなり、父と母2人での生活はこの先無理だから通院治療のできる施設を早くみつけなくては、と思っていました。
すぐに死んじゃうわけじゃない、家族はできることをやらないと。
実際には、母は余命よりもずっとずっと早くにいなくなってしまいました。
母はどうしたかったのかな?
結局、私達家族は母に余命を伝えることはありませんでした。
元気になるための入院、しばらくの治療が終わったら退院しよう、と嘘をつき続けました。
命が残り少ないと知ってしまったら、母は、きっと生きる元気をなくしてしまうのではないかと思いました。
家族が余命を受け入れられなかった、ということなんだと思います。
特に、父は
「誰にも余命のことは伝えてほしくない」と言いました。
口に出してしまったら本当になってしまう気がする。母がいなくなってしまうなんて父は思いたくなかったんでしょうね。
私は、どうしても叔母(母の妹)だけには知らせたくて、だって、もし自分の命が残り少ないってなったら私は妹には知らせてほしい、妹だったら知っておきたかったって思う、と思うから、母が入院していることを叔母に電話で伝えました。
叔母は、遠くに住んでいるのにすぐに新幹線で会いに来てくれました。
叔母は日帰り、私も母の余命を知ってしまったとは言え、家族を北海道に置いていつまでも岡山にいるわけにはいかず、同じ新幹線に乗って途中まで一緒に帰ることにしました。
新幹線の中で、私は主治医の先生からの話を叔母に伝え、2人で泣きました。
余命なんて嘘だ、
きっとまた元気になる、
嘘だ、
嘘だ、
覚悟なんて、そう簡単にできるものではない。
あの時の北海道への帰り道、飛行機の窓から撮った写真です。
夕方の飛行機、大阪からの北海道便は、赤と紺の空がとてもきれいでした。
北海道に着く頃には夜景で、函館の形がよく見えました。
次回「延命治療したいか?」です。
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