前々回から終活の話をしています。
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「余命告知されたいか」という問いと同じくらい、エンディングノートには、当たり前のように「延命治療をのぞむか」という問いが書いてあります。
延命治療って何よ?って思いませんか?
いまいち、実感ないですよね。何となく”延命治療をのぞむ”にしておこうかと書いてみたりして。
そんなこと、その時になってみないと分からないよって思いますよね。たしかに。
でも、この延命治療の選択こそ、ちゃんと本人の意思を残しておかないと家族には酷な事だと、私は思います。
余命宣告からしばらくして、母の体のいろんな機能が下がって、もう今にも命があぶないという時がありました。(この時は持ちこたえたんですが)
その時、北海道から岡山へ急ぎ、母の入院している病院に着いてすぐに主治医の先生から、万が一の時、人工呼吸器を着けるかどうかという確認と説明をされました。
私の解釈では、呼吸する力が弱まっている、喉を切開して人工呼吸器を
つけることができるがどうするか。
装着したら呼吸はできるようになるが自分の意思とは違う機械のリズムで呼吸することになる、苦しいかもしれない。
装着しなかったら呼吸の機能が弱まっていく、つけたとしてもそんなに長く命が持つわけでは、、、
という内容だったと思います。
かなり動揺しながら聞いていたので、私のフィルターがかかって医学的文言が間違っているかもしれませんが、そのような内容でした。
そして、この時、
私と父の意見は割れました。
母に少しでも長く生きていてほしい、今、持ちこたえたら少し回復するかもしれない、人工呼吸器をつけて下さいと、願う父。
これ以上、母が苦しい思いをするなら、もういいんじゃないか、ここまで良く頑張ったよね、人工呼吸器はつけなくて良いと、覚悟する私。
希望を持ち続けるか、
諦めるか。
すごく辛い選択でした。
命を諦める、なんて。
お母さん、どうしたかった?
こんなことになる前に聞いておけば良かったね。
延命治療とは、
回復の望めない終末期の患者にできるかぎり生命を維持し延命を図ろうとする治療。人工呼吸器、輸液、点滴などのこと。
その時になってみないと、自分がどうしたいかなんて本当に分からないけれど、延命治療を判断する時、決めるのはたぶん自分ではないです。自分には、もう意識はないかも。
大切な人の命を止める選択をするか、家族には、決められないよ。
だから、自分で決めて意思を伝えておかないと。
私は、もしもの時、もう意識がなかったら
でも、しばらく会っていなかった家族が、私に会いに急いで向かって来てくれてて、もし間に合うなら、もし待てるのなら、延命治療をして最後に会いたいと思ってます。
勝手だね。
そんなに上手く思うようにはならないか。
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